ネットワーク接続技術の資格として認知されることの多い「工事担任者」は、昭和60年(1985)から制度化された総務省の国家資格です。
取得者数は延べ80万人を超え、近年でも年間3万人が受験することから、各種資格の中でも人気のある位置にいると言えるでしょう。
しかしながら、「工事担任者」という名称は何の工事なのかさっぱり分からないと評判でもあって、しかも何をする資格なのかも現実問題として曖昧な部分が多いように思えます。試験代行機関である日本データ通信協会が「電気通信の工事担任者」と法律に無い名前に頼っている現状は少し悲しい部分も。
2019年になり、工事担任者制度の改正具体案が検討されて情報が出始めたことを契機に、なぜ工事担任者は工事担任者なのか、そしてどのように現行制度へ辿り着いたのかという歴史を調査して少しまとめてみました。
Web上にはどこにもなかった過去の工事担任者の歴史です。ちょっと不思議な資格の来歴をご紹介します。
通信端末をネットワークに接続するための資格「工事担任者」は、様々な文章や記事で「工事担当者」と間違われることが多いものです。
しかしながら、かつては本当に「工事担当者」だった時代がありました。このページでは、そんな戦前・戦中の工担制度について紹介していきます。
最初に工担という名前が世に現れたのは大正8年(1919)のこと。当時、電話を管轄していた逓信省(現総務省)が公布した「電話規則」の改正時でした。
旧字では「工事擔當者」と言う表記になります。
大正8年 逓信省令第8号 電話規則改正時
電話規則とは、電信法に基づいた電話加入や設備に関する詳細規定です。このとき、電話機増設申請書として「工事担当者」「工事従事者」というものが現れたのが最初の例となります。
大正8年 逓信省令第8号 第4号書式(抜粋)
ここに出てくる「工事担当者」とは工事監督の意味です。現代であれば現場代理人や施工管理技士といったものに近いでしょう。
一方、現場の作業者は「直接工事従事者」と呼ばれました。
このとき、「話第200号通牒」という通達が出されており、現代的な仮名遣いと現行字体に直して抜粋しておきます。
要約(意訳)すれば、PBX電話工事業者の中には技術も法律知識も無い奴がいて、しかも高収益の新設工事ばかり力を入れ保守はないがしろにされてる。(おかげで電話局の交換に支障が出て大変迷惑だ!!)。だから各逓信局は地域の実情に合わせていいから業者の審査をしっかりせい。ってことです。
逓信省令による工担規定は「増設電話機」に関するものなのですが、時代背景があまりにも現代と違うので説明しておきましょう。
まず最初に理解しておかなければならないのは、政府が全ての電話事業を独占しているということです。電信法の規定により一般企業が電話事業を営む行為は一切禁止されていて、特別な条件が無い限りは電話機の独自設置許可は下りません。
役所が加入申込受付から工事、運営、保守、料金徴収に至るまで一貫して実施するのが基本です。電話機本体も逓信省からのレンタルという時代。例外は鉄道通信などの公益性があるものに限られています。
PBX(内線交換機)の設置が可能になったのは明治35年(1902)とされ、大正期には普及が進んでいったようです。急速に普及したPBXの規律を目的として大正8年に規定が整備されたというところ。
次に理解しておきたいのは「増設電話機」という名称です。1加入契約で1台の電話機設置は今も昔も同じこと。この頃はビルディング建築が増加していた時期でもあり、現代のように内線(2台目以後)を設置したいという要望も生じて来たのです。
そのため「甲種増設電話」と呼ばれた制度が整備されました。今で言うところの PBX と内線電話機のことです。ちなみに「乙種増設電話」も存在しますが、スイッチで2台の電話機を切り替える簡易増設タイプであって、工担に関係するのはかなり後の話です。
PBXは逓信省の設備ではないため「私設電話」と称される「民間で勝手に構築した電話設備」に分類されます。(現代では自営電気通信設備に分類)
通常の電話設備は全て役所が主体となって工事するので資格が不要。あくまで民間の内線電話設備(私設電話)があって、それを公的な電話ネットワークに外線接続するがゆえに工担という制度が生まれたのでした。
工事担当者時代、特に初期の認定制度については不詳な点が多いです。どうやら認定といったものは本省ではなく、各地方の逓信局(現在の地方総合通信局)の内規で実施する案件だったようで、まとまった資料が見つかりません。地方ごとで制度がやや異なるようです。
例えば、九州逓信局の内規(昭和3年)によると学歴や経歴で認定を行っていた様子。級別ではなく単に工事担当者と従事者が規定されるのみ。
東京逓信局の昭和10年前後とされる内規によれば、学歴、経歴以外にも検定試験も規定されてました。(請負業者、工事担当者、工事従事者の認定内規。昭和10年10月から昭和17年11月までは東京都市逓信局と東京地方逓信局に分割されていたため、おそらく昭和10年以前の規定と思われる。)
※上記は第1級の工担規定抜粋であり、2~3級の工担と1種~3種の工事従事者は記載省略している。1種従事者=2級工担、2種従事者=3級工担相当で、3種は尋常小学校卒の満16歳以上となっています。
上記の規定群は行政通達に過ぎませんが、法令中に「認定」といった文字が現れたのは、戦時色が濃くなってきた時期、昭和12年(1937)からです。
昭和12年 逓信省令73号 電話規則改正時
昭和15年(1940)時点の東京都市逓信局の認定規則によれば、試験制度が相当に整備されて3階級 計6種類の資格認定・検定制度が施行されていたことが分かります。
資格認定は、工事自営者、工事請負者、工事担当者及び工事従事者と細分化されていて、自営者・請負者が法人認定、工担と従事者が個人認定となっています。
工担は『工事の主任者たるべき者』と明確に定義され、従事者は『電話の設備維持に従事する者』とされました。工事担当者が従事者を兼任してもよい制度となっています。
東京都市逓信局における工担の認定は、従事者の認定とほぼ共用された規定であり、いずれも三階級の制度で施工・保守範囲とも共通となっています。
当時の試験問題を見てみると法規も技術も回路図すらも意味が汲み取れないものが多く、通信技術の移り変わりが実感できます。
この工事担当者という名前は当時すら微妙だった節があり、日刊工業新聞(1940-08-11付)の記事とされる資料には、電話工事担当者とか電話工事主任技術者という新聞が独自に付与した名称も見られます。
ここで少し解説を入れますが、工担の3階級は技術的難易度が高い順序に自働式、共電式、磁石式に分かれているという意味です。現代のPBXは「自働式」に相当するでしょうが、当時は、共電式、磁石式という手動交換が必要なタイプのものが主流を占めていました。
最古参の磁石式は、電話交換手を呼び出すのにハンドルをグルグル回すタイプ。後継機種の共電式は電話局側から常時給電されていて、オフフックのみで交換手を呼び出せるタイプです。新鋭の自働式は昭和で全国に普及したダイヤル式のこと。(戦後は自働→自動へ漢字が変更されました。)
ちなみにこの昭和15年(1940)というのは「電気通信技術者」資格が創設されて、通信系の民間企業(KDDの前身である国際電気通信株式会社や旧NHK等)の主任技術者に対して有資格者の配置が義務付けられた年だったりします。電気通信技術者は通技とか通検と略されて昔の記事に出てくるものですが、戦後は無線部分だけが生き残り電波法上の無線技術士に移行します。
ややこしいことに、逓信省では電気事業主任技術者(のちの電験)の付与も行っていた時期であって逓信省の資格好きも見て取れますね。(当時は電験ではなく逓試と呼ばれていた。)。ただ、戦時中に電力分野を軍需省に奪われて以後、戦後も商工省→通産省→経産省と監督官庁が維持されてしまったせいで、今は経産省資格というイメージしかないです。
前述の東京都市逓信局の工担認定規則では、第1級銓衡(選考)の基準として電気事業主任技術者2種以上、電気通信技術者2級以上が掲げられています。現代のイメージならば電験2種や電通主任を持っているのに相当。
昭和16年(1941)末に開戦した太平洋戦争によって、電話工事を取り巻く環境は一変します。この頃の資料もまばらで、あまり情報が集まらないのですが、少なくとも工担のあり方に著しい変化が生じたことだけはハッキリしてます。
戦争真っ只中の昭和18年(1943)12月。全国のPBX工事業者が戦時体制に組み込まれました。日本電話設備株式会社が設立されて、308社あったPBX会社が半ば強制的に合併させられたのです。
当時存在した企業整備令といった強制力のある法律に基づいたものではなく、あくまで自主的に戦争完遂のために結集したことにされました。もちろん逓信省主導なんですけどね。(合併責任者は工務局長の松前重義。東條英機の嫌がらせで二等兵召集される前の頃。)
元々、通信建設業は昭和13年(1937)に日本電信電話工事株式会社という国策的な「民間企業」が逓信省の工事をほぼ独占受注するという下地があったことも背景にありそうです。(これも実質的な強制合併だが、自由経済原則の建前は厳守されて注意深く実施された。)
PBXは私設電話であり、あくまで民営が基本であった訳ですが、戦局が悪化すると共にPBXの工事や維持が困難となってきました。通信用機材はもちろん人材も払底しているのです。
そのような状況に加えて、電話設備運営の一元化を狙う逓信省の意向があり、主要なPBX会社幹部が逓信省に説得され、合併によって出来上がったのが「電設会社」こと日本電話設備(株)でした。やむを得ず合併させられたとは当事者の弁。
これより少し前に設立された「船舶無線電信電話(株)」も似たような経過を辿っていますし、同じく逓信省管轄だった電力会社も9社に大統合されていました。統制合併が著しい時代だったのです。
法律面でも強力なサポートがあり、PBX関連業務は電設会社のみが実施できるように逓信省令(電話規則)も改正。PBXは1社独占体制に移行したのです。(昭和18年12月27日 運輸通信省令第30号,31号 通信院告示第99号)
同時に監督たる「工事担当者」という名称は事実上消滅します。昭和12年時点で電話規則本文から削除されていたものの、電話機増設申請書には「工事担当者」の記載欄がありました。
それが改正によって「工事従事者」に統一されています。
昭和18年12月27日 通信院告示
逓信省の設立要綱によれば、「政府は会社に対し工事担当者としての資格認定を為し事実上独占的地位を附与する如く措置するものとす」とあり、かなりダイレクトな表現も。法人を工担とみなして、技術者認定は工事従事者のみにした感じですね。戦時中なので無理が利いているようです。
また、「電設会社」の本支店には電気通信技術者の有資格者配置が求められました。
戦時の電話、特にPBX・内線電話機は不要不急とされた上で防衛用に回収・転用促進されまくり。(昭和20年3月19日閣議決定「電話設備ノ緊急動員ニ関スル件」)。当然ながら戦災による滅失もありますのでPBX電話機数が極端に減少したと日本私設電話史に書かれています。(会社設立時 55万台→終戦時 16万台)
戦後もPBX関連の工事・維持は日本電話設備が独占的に事業を実施していたものの、昭和22年(1947)3月にGHQの指示(SCAPIN-1580)があり、同社の運命が決まります。
この対日指令は日本の通信政策に決定的な影響を与えた文書として知られていて、通信の官営一元化を目的に、国際電気通信(株)の国有化を求めたものです。
それとは別に日本電話設備(株)の方針にも触れられていて、3年から5年以内に政府引き受けを実施せよとのお達しでした。
1947-03-25 連合軍最高司令官覚書(抜粋)
(1)現在、日本電話設備株式会社が所有し又は運用し、若しくは所有かつ運用する電話及び電信に関係する全ての通信施設を大日本帝国政府において所有及び運用を引き受ける計画(を60日以内に連合国軍最高司令部へ提出せよ。)
このメモランダムによって日本電話設備会社が独占していたPBX事業は昭和25年(1950)に人員、業務ともに政府(電気通信省)へ引き継がれました。別の覚書によって政府組織も郵政省と電気通信省に分離した頃です。(郵電分離)
この頃、PBX事業自由化の動きが活発になったことが日本私設電話史に記されています。ところがGHQ CCS(民間通信局)の意向はあくまで国営一本化であって、昭和23年(1948)には電話規則もその方針に基づいて改正されてしまいました。
日本電話設備会社のPBX事業と1,700名の人員は段階的に電気通信省へ移管され公務員化、昭和25年(1950)5月をもって、PBXを含めた全ての通信設備は国営化されました。加えて工事担当者、工事従事者制度がその法的根拠を全て失うことになるのです。
ただし、昭和25年7月以後、例外的なPBX設備に対して第1種~第3種の資格認定を行っていた形跡はあります。また、PBX工事業自体は下請けの指名業者として存続しており、工担と従事者相当の試験が行われていようです。
しかしながらこれらは通達レベルの話であって法的根拠は一切無いと後に解釈されています。そして、後に工事担任者制度が復活する際に一騒動起こす火種にもなるのでした。
国営一元化になった電気通信省自体も、サンフランシスコ講和会議で平和条約が発効した直後の昭和27年(1952)8月に、日本電信電話公社として生まれ変わることになります。
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